投稿・意見


利用者さん、家族さん、従事者さんのおたより 



松江市・特別養護老人ホーム長命園 利用者ご家族様


 人を殺さんでよかった・・・


 深く長いアーという吐息についで、身体からしぼりだすように、父が言った。1913年生まれの父は、自身の目を疑ったそうだが、30代になってから戦地に赴かされた。そのことを知ったのち、私は何度か戦地での体験をたずねたが、父は何も話さなかった。87年、父は軽い脳梗塞に倒れた。実家にかけもどった私は簡便な対処策にかかった。それが一段落し、父の枕元に寝そべって、父の幼いころからの歩みをたずねていた。ゆったりした時間だった。不意に、聞ける機会は最後になるかという思いがよぎり、「戦地では、どんなだったの」と問うた。父は目をとじ、深い呼吸を繰り返してから、初めて口を開いてくれたのだった。


 父は散髪の腕をもっていた。生活の技も豊かで、それらが隊の中で重宝された。年下の将校からずい分可愛がられた。そのお陰で、偵察に出かけたとき谷を挟んで銃撃をうける体験はしたが、本格的な戦闘の場に赴くことはなかったという。父のような従軍体験は稀有なことであっただろう。父の言葉は、私自身の思いだった。父が人を殺さなくて済んで、本当によかった。その稀有が、ありがたかった。それなのに、父はなぜ長い間、そのことを口にしなかったのだろう。心の奥底に、何を封じていたのだろうか。いまも、あの時の父の姿を思い出す。


 1924年生まれの母は、太平洋戦争前に、姉の伝で大阪に出た。縁あって、製薬会社の社長宅に女中見習いに入った母は、ずいぶんと可愛がってもらえ、お茶、お華、着付け、日舞など、仕込んでもらった。しかし、そんな生活も長くは続かず、戦況悪化の中で徴用に取られる毎日になり、戦闘機の車輪造りも経験したそうだ。言われるままに戦時国債を買いつづけたが、挙句、空襲で灰燼に帰した。肺を焼かれたが、命は長らえた。そんな母は、他国での戦禍の報に、時折、「戦争はしたらいけん。戦争しようなんちゅうもんは、ばかじゃ」と口にした。


 父母は、尋常高等小学校をかろうじて出て、読みは何とかだが、書くことには苦労していた。えらいことになっていくと思いつつも戦争の波に飲み込まれていった、ごくごくありきたりな庶民だ。だからだろう、人間は他者なくしては生きてはいけないという生活を土台に、異国の地で他国の人々を殺す狂気におびえるという人間らしさを持っていた。戦禍の体験をへて、ささやかな生活を滅ぼす戦争などしてはいけないのだという、まともさを持ちえた。制定された日本国憲法は、父母の心情を具現するものとなった。


戦力を持たない。戦争をしない国としてさきがけ、世界の平和に貢献する。この憲法9条が世界の人々の現実の目標とされる時代に、いま入りつつある。日本の憲法9条を各国の憲法に書き込もうという運動が世界で広がっている。イラク戦争を前に、人類史上始めて、戦争開始前に巨大な反対運動が地球上を駆け巡った。世界は、国家としても、人々の運動としても、平和の国際秩序の確立をもとめる時代に入った。父は2001年にその生涯を閉じた。母は2002年から2度、強い脳梗塞をわずらい、幸いにも、特老ホームでお世話になることができた。いま、自らでは示しえなくなっているが、父母の心情は、日本と世界の大きな舞台で、ただ繰り返さないということにとどまらぬ、進展を見ている。私も、その継承、発展を担うひとりとして、今を生きたいと思う。



  61年目の8月15日に     小笠原 年康